調査・質問内容

質問番号 0010006941
状態 受付済
質問日 2020/07/27

高円寺の阿波踊りについて調べている。第一回目の時は「ばか踊り」といったようだが、なぜ「ばか踊り」だったのか?当時の祭りの様子や高円寺の雰囲気、阿波踊りの経済効果や発展した理由についても知りたい。

図書館からの回答

回答状態 公開済
公開日 2023/10/23
関連質問番号

都立図書館蔵書検索や各種データベースを<高円寺><阿波踊り><阿波おどり><ばか踊り>等のキーワードで検索し、ヒットした資料を調査した。
資料1~2、東京高円寺阿波おどり振興協会のサイトには「ばか踊り」になった経緯、当時の祭りの様子やその後の発展など、阿波おどり全般について記載がある。
その他、資料3~7は「ばか踊り」の名称について記載、資料8~13は高円寺の当時の雰囲気について写真掲載などがあった。
資料14以降は経済や発展について記載のある資料。

<全般について>
資料1
『おどれ高円寺 どよめきの三十年』
高円寺阿波おどり30周年記念誌。
p.42-50「三十年のあゆみ」(森田昇栄)に、第1回(昭和32年)の項に「名称は、高円寺独自のものをということで「高円寺ばか踊り」に意見が一致。」(p.42)、第7回(昭和38年)の項に「正式に「高円寺阿波おどり」の名称を使用。」(p.45)とある。
「第1回踊り風景」「初期の立て看板」「ばか踊り宣伝カー(第2回)」など初期の写真も多数掲載されている。
p.52-61「わが高円寺阿波おどり<座談会>」にも、第1回の記念写真や昭和30年代半ばの高円寺の写真が掲載されている。

資料2
『おどれ高円寺 めくるめく発展の四十年』
40周年記念誌。p.10-26に「山あり谷あり 高円寺奮闘記 四十年のあゆみ」が記載されている。
p.12-15には第1回から第7回までの初期の頃の祭りの様子や写真が紹介されている(写真は第6回の分まで)。

なお、「NPO法人 東京高円寺阿波おどり振興協会」のサイト「東京阿波おどり」( https://www.koenji-awaodori.com/ )では、30周年から60周年の記念誌が全て掲載されている。
50周年記念誌のp.4には「ばか踊り」になった経緯についても書かれている。
ホーム > 全般情報 > 史料館 > 記念誌
https://www.koenji-awaodori.com/about/his04.html

また、高円寺のあゆみに関する資料も掲載されており、関連する記述や写真が確認できる。
ホーム > 全般情報 > 史料館 > 高円寺のあゆみ
https://www.koenji-awaodori.com/about/his09.html
・『あわおどり高円寺の十八年』
・『高円寺 村から街へ』(資料8)
・『純情商店街 高円寺銀座商店会協同組合設立40周年』

<「ばか踊り」の名称について>
資料3
『朝日新聞』縮刷版 2019年10月24日 朝刊 地方 20面
p.996「高円寺 3 阿波おどり 上 「ばか」から「阿呆」へ 63回目の夏」(前多健吾)
「今なら、少し言葉にするのを躊躇(ちゅうちょ)する名称だ。こうなったのには理由がある。阿波踊りの歌の出だしは、「踊る阿呆(あほう)に、見る阿呆」。東京高円寺阿波おどり振興協会の冨澤武幸・事務局長(60)によると、「関西が「アホ」なら、東京は「バカ」だろうと。阿波踊りと名乗るのは気が引け、本家に対する遠慮もあったのだと思います」。」
初回の参加者の写真も掲載されている。

資料4
『読売新聞』縮刷版 2016年8月23日 朝刊 33面
p.1147「おどって60年高円寺 上 白塗り集団 苦い出発」
「自分たちの踊りを「阿波おどり」と称することに抵抗を感じ、付けた名前は「ばか踊り」。本場・徳島の「踊る阿呆(あほう)に見る阿呆 同じ阿呆なら 踊らにゃ損々」という歌い出しの文句をもじったのだが、「本家と違うことは自覚している」という言い訳でもあった。」
1回目と2回目の写真も掲載されている。

資料5
『地域開発ニュース』177号 (1983年9月)
p.59「インタビュー 高円寺の阿波踊り知ってるかい?」(小沢淳男)
「奇々怪々、化粧をした若者が六方を踏み、見得を切る。鉦や太鼓が佐渡おけさまがいのリズムを奏でるなかで、男女32名が悲壮な顔をして踊るというより商店街通りを走りぬけた。阿波踊りというには、あまりにおこがましく「高円寺バカ踊り」」と呼んだ。」

資料6
『Chikai』291号 (2006年秋)
p.13-15「CASE STUDY 2 半世紀を迎え、新たなる船出「東京高円寺阿波おどり」」
「徳島では阿呆踊りともいうらしいから「ばか踊り」にしよう。名は体を表す命名だが、子どもたちにはカッコ悪いと不評だった。」(p.14)

資料7
『杉並風土記 中巻』
p.156-159「第一章 旧高円寺村と旧馬橋村 高円寺阿波踊り」
「誰かが冗談に「バカ踊りでも踊ろうか」と言ったのがきっかけになって、「阿波踊りなら商店街でもできる」「鳴門の渦潮でお客を引き込もう」などと全員が賛成し、冗談が本当になって阿波踊りが誕生しました。」(p.156-157)

<高円寺の当時の雰囲気・祭りの様子>
資料8
『高円寺 村から街へ』
p.93-98「お江戸の乱舞 高円寺の阿波おどり」
元徳島新聞東京支社長・谷田匡氏が平成2年8月12日の徳島新聞に書いた記事「高円寺阿波おどり」を収録しており、発展過程について記載がある。
第2回、第3回、第4回など初期の写真も掲載されている。

資料9
『東京新聞』1958年8月28日 朝刊 都内版 6面
「ナベ底ふっとばすバカ踊り 高円寺南口本通りで」
高円寺阿波おどりが新聞に報道された第一号として30周年記念誌(資料1)でも紹介されている記事。
第2回の写真が掲載されている。

資料10
『都内主要商店街の概況』
p.106-112「高円寺」
高円寺発展の歩みや商店街の概要、客層と商店街の特色などについて記載がある。

資料11
『昭和30年代の中野・杉並 1955-1964』
昭和30年代の高円寺の写真として、以下が掲載されている。
p.16「高円寺駅北口(昭和32年)」、「雪の日の高円寺駅プラットホーム(昭和32年)」
p.26「高円寺南1丁目あたりを走る都電(昭和38年)」
p.29「中華そば35円(昭和32年)」※高円寺西踏切の傍の写真
p.30「第2回目の高円寺阿波おどり(昭和33年)」、「夜の高円寺駅南本通り(昭和30年代)」
p.43「高円寺南商店街を行く馬(昭和30年代後半)」、「阿波おどりおじさん(昭和39年)」
p.46「馬橋小へ続く道(昭和30年初め)」※高円寺北4丁目
p.49「高円寺阿波おどりのテレビ取材(昭和39年)」
p.53「路地で遊ぶ子どもたち(昭和30年頃 高円寺北)」
p.54「アメリカ製の遊具、ホッピングが流行(昭和32年 高円寺南)」
p.60「高円寺の映画館(昭和33年)」

資料12
『東京懐かしの昭和30年代散歩地図』
p.98-99「高円寺 阿佐ヶ谷 中央線高架の城壁に分断された街」
昭和37年頃の高円寺阿波踊りの写真や、昭和32年頃の高円寺駅前南本通り商店街の写真の掲載があるほか、当時の町の様子について記載がある。

資料13
『杉並区の昭和 写真アルバム』
p.112-114「高円寺阿波おどり」
第2回、第5回、第8回、第25回の写真が掲載されている。

<経済効果・発展>
資料14
『高円寺南商店街振興組合における近代化の問題点と改善策』
p.48-49「IV 共同事業活動の現状とその評価 2. 共同事業活動の内容 (1) 共同売出宣伝事業 高円寺阿波踊り」
高円寺阿波踊りの歴史、目的と意義、特性などについて記載がある。
一時、東京中に阿波踊りが流行した時期があったが、行事を商業活動に結びつけようとする気持ちが先行して「踊り」そのものが育っていかず、そのため踊りの規模を維持し、拡大しようとすれば採算がとれずやめてしまう結果となったこと、これに反して当街では割合早い時期に、商業活動に直接結びつけることを止めたところに発展の基があったと思われるとして、「直接的には、商業活動には結びつかないが、高円寺の知名度を高め又、住民の心の中に、高円寺のバイタリティーと「ふるさと」意識を待たせることによって、間接的に商業活動にはなっていると考えられる」(p.49)としている。

資料15
『都市祝祭の社会学』
p.241-320「第三章 非伝統的都市祝祭 高円寺阿波おどり」
参加する連などについて詳しい記述があり、当初の運営の苦労についても「阿波おどりは、阿佐谷の七夕のように、商店街を見て歩くという性格のものではないから、商店の売上げ増加にはなかなか直接に結びつかない。そのため、商店会役員以外の協力を得るのは、なかなかむずかしかったという。」(p.266)などとある。

資料16
『日本経済新聞』縮刷版 1999年8月23日 朝刊 37面
p.1123「東京高円寺阿波おどりを開く振興協会筆頭副会長塚本忠吉さん(ひととき)」
「阿波踊りの期間中は観客が多すぎて、実は商売になりません。それでも、高円寺の知名度を上げる効果ははかりしれないものがあるでしょう。消費者の気持ちが明るくなり、少しでも景気に良い影響が出ることを期待しています。」

以下は都立図書館では所蔵していない資料だが、「上智大学学術情報リポジトリ」( https://digital-archives.sophia.ac.jp/repository/ )で本文が公開されている。

情報1
『上智大学社会学論集』46巻 (2022年3月9日) 上智大学社会学科
p.153-166「「合衆型祝祭」のゆくえ 高円寺阿波おどりの変遷を事例として」(芳賀学)
https://digital-archives.sophia.ac.jp/repository/view/repository/20220421008
1980年代後半から2010年代後半までの間に高円寺阿波おどりに生じた変化、運営組織である振興協会のNPO法人化などについて記載がある。

[調査した主なデータベース]
・朝日新聞クロスサーチ (朝日新聞社)
・ヨミダス歴史館 (読売新聞社)
・日経テレコン 公共図書館版 (日本経済新聞社)
・Web OYA-bunko 公立図書館版 (大宅壮一文庫)
・MAGAZINEPLUS(マガジンプラス) (日外アソシエーツ)
・雑誌記事索引集成データベース ざっさくプラス (皓星社)
・国立国会図書館オンライン (国立国会図書館) https://ndlonline.ndl.go.jp/

調査したデータベースやインターネット情報の最終検索日及び最終アクセス日は、いずれも2023年10月10日である。

参考文献

タイトル 注記
【資料1】おどれ高円寺 どよめきの三十年 / 高円寺阿波踊振興協会 / 1986.8 <T/47・38/3001/> p.42-50、p.52-61
【資料2】おどれ高円寺 めくるめく発展の四十年 / [東京阿波踊り振興協会/編] / 東京阿波踊り振興協会 / 1996.8 <T/47・38/3001/96> p.10-26
【資料3】朝日新聞 1180号 (2019年10月) / 朝日新聞社 p.996
【資料4】読売新聞 59巻 8号 通巻696号 (2016年8月) / 読売新聞東京本社 p.1147
【資料6】雑誌:Chikai 291号 (2006年秋) / 東京電力営業部 p.13-15
【資料7】杉並風土記 中巻 / 森泰樹/著 / 杉並郷土史会 / 1987 <T/47・20/7/2> p.156-159
【資料8】高円寺 村から街へ / 高円寺パル史誌編集委員会/著 / 高円寺南商店街振興組合 / 1992 <T/47・20/3006/> p.93-98
【資料9】東京新聞 63号 (昭和33年8月) / ニチマイ
【資料10】都内主要商店街の概況 / 東京商工会議所/編 / 東京商工会議所 / 1957 <T/0・672/5/> p.106-112
【資料11】昭和30年代の中野・杉並 1955-1964 / 三冬社 / 2008.5 <T/46・210/5009/2008>
【資料12】東京懐かしの昭和30年代散歩地図 / ブルーガイド編集部/編集 / 実業之日本社 / 2005.2 <T/210.7/5024/2005> p.98-99
【資料13】杉並区の昭和 写真アルバム / いき出版 / 2019.5 <DT/47・210/5021/2019> p.112-114
【資料14】高円寺南商店街振興組合における近代化の問題点と改善策 / [東京都商店街振興組合連合会/編] / 東京都商店街振興組合連合会 / 1980 <T/0・672/9/79-3> p.48-49
【資料15】都市祝祭の社会学 / 松平 誠/著 / 有斐閣 / 1990.2 <3852/3009/90> p.241-320
【資料16】日本経済新聞 51巻 8号 (1999.8) / 日本経済新聞社 p.1123

転記用URL

https://catalog.library.metro.tokyo.lg.jp/winj/reference/search-detail.do?qesid=0010006941&lang=ja

1/1